好奇の的になっている彼女の存在に、気付かないわけはなかった。
「今年も庶民が紛れ込んできた」
「今度は何ヶ月もつかな?」
そんな囁き声にも、織笠鈴はほとんど大した反応は見せなかった。
富裕層の子女ばかりが通うと思われている唐渓にも、ごく稀にだが、庶民と言われる低所得な家庭の生徒が入学してくる事がある。事情はさまざまだが、卒業まで通い続ける生徒は、それこそ稀だ。ほとんどが一年、早い場合だと一ヶ月ほどで退学してしまう生徒もいる。
織笠は、周囲からの嫌がらせに敢然と立ち向かうような生徒ではなかった。だから、それほど長くは居ないだろうと思われていた。魁流も、周囲と同感だった。
メソメソと泣いているところを見た事は無いが、見るからに気が弱そうで、とても唐渓の雰囲気に馴染めるとは思えない。夏休みが明けた時には、もういないのかもしれない。
だが九月一日、彼女は平然と登校してきた。同じ教室で、当たり前のようにHRを受ける彼女の姿に、魁流は初めて興味を示した。
不思議な子だ。
依然として続けられる嫌がらせにも、彼女は淡々と対応していた。反論するでもなく、だが屈する事もしない。
彼女は、強いのだろうか? それとも弱いのだろうか?
好奇心のような感情が膨らみはしたが、それでも口数の少ない魁流が、彼女に声を掛けるようなことはなかった。そんな時、小さな噂が流れた。織笠鈴は、実は孤児院から通っているらしい。
まさか。
その噂はすぐに否定され、消えていった。
唐渓には、奨学金などといった制度は無い。学力だけでなく財力も備えていなければ通えない。親もいない、孤児院などというところに身を寄せている人間が、唐渓に通う事など到底無理だ。入学金さえ払えないはず。
ならば、なぜそのような噂が流れたのか。
魁流はふと、その噂は本当なのではないかと思った。
いつも一人で、虐められても泣きもせず、笑いもせず、何を考えているのかもわからない少女。不気味だと陰で囁かれる存在。
不気味? いや、不思議だと思う。
そんな彼女ならば、考えられないような環境に身を置いていても、おかしくはないのかもしれない。
魁流にとって孤児院などといった環境は、言葉で知っているだけの未知の世界だった。
嘘だろうか? それとも、本当なのだろうか?
ふと、帰り道を付けてみた。
住宅街の路地で、彼女は立ち止まった。
「どうせなのだから、一緒に歩きましょうよ」
自分を振り返る彼女に、魁流は絶句した。
「何? それとも、庶民と並んで歩くのは、お嫌?」
何も言わずに突っ立つ魁流へ向って、鈴は少しだけ笑った。中学生にしては大人びた表情だった。
笑ったように、魁流には見えた。
「どうしたの? 私の後を付けてきているのでしょう? 別に隠しているわけでもないわ。目的地はもうすぐそこよ」
言って、彼女は路地の先の民家を指差す。
それでも何も言わない魁流に鈴は小さくため息をつき、諦めて背を向けた。
彼女の指差した民家には、入り口に唐草ハウスと書かれていた。
「ここは、孤児院なのか?」
唐突に質問する相手に、鈴は立ち止まって振り返る。
「そんなようなものよ」
「じゃあ君は、本当にここから通っているのか?」
「違うわ」
「違う?」
ワケがわからず混乱する。眉を寄せる魁流を見つめ、やがて背後の民家を見上げる。
「ボランティアをしているだけよ」
「ボランティア?」
「えぇ、そうよ」
その時、家の中から子供が飛び出してきた。
「レイっ!」
大声をあげて腰に飛びつく。
「約束の写真、持ってきてくれた?」
「えぇ、もちろん」
言って、鈴は鞄を開ける。そうして写真を一枚取り出し、しゃがんで差し出す。
「ねぇ、可愛いでしょう?」
「わぁ、本当だぁ」
子供は食い入るように見つめる。
「小さいねぇ。レイの掌に乗ってるよ」
「きっとまだ生まれたばかりだから」
「すごいねぇ、可愛いねぇ。こんな子犬を捨てるなんて、ひどいよねぇ」
「そうね」
「でも、飼ってくれる人、見つかったんでしょう?」
「えぇ、そうよ」
「よかったねぇ」
顔をあげてニッコリと笑う相手と視線を合わせ、鈴も笑った。
「この写真、みんなにも見せてくるよ」
子供は言うなり家の中へ飛び込んで行く。その後ろ姿を見ながら、鈴はゆっくりと立ち上がった。
「今のは?」
「この施設の子よ」
「孤児なのか?」
「どうかしら?」
振り返り、少し首を傾げる。
「両親は居るわ。ただ、どちらも引き取りを拒否しただけ」
「拒否?」
「両親とも不倫して、離婚時にどちらも親権を放棄したのよ。そういう子、孤児って言うのかしらね」
言いながら少し乱れたスカートを払い、一歩踏み出してからもう一度振り返った。
「いらっしゃいよ」
「え?」
魁流は呆気に取られる。
「入ってみるといいわ」
「どうして?」
戸惑う相手に、鈴は笑った。今日、何度目の笑顔だろう。学校では、一度も見た事など無いはずなのに。
「どうして、僕を?」
「入りたそうに見えるから」
そう言って、鈴は魁流に背を向けた。
魁流は、生まれた時から恵まれていた。両親には愛され、欲しいものは何でも手に入れる事ができた。オモチャも、服も、そして両親からの愛情も。
特に母親からの愛情は、魁流の両手には溢れるほどだった。その愛情に、過剰なほどの期待と執着が込められていると知ったのは、いつの頃だっただろうか。気付いた時には、魁流はその頑丈な檻の中に、しっかりと閉じ込められてしまっていた。
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